この言葉は老子の中に出てくる言葉です。 ほどを知り、分相応に満足できることを知っている者は、心が豊であるという意味なのですが、ようやくこの言葉の意味が判る入り口の年代になりました。 それと相俟って死ということに対しての考え方が変化してきました。
若い方には死という概念は日常ないでしょうが、60歳を超えてきてから老いを自覚すると共に、 死と生き様を真剣に考えるようになってきました。 この問題を考え出してから、私は今まで自分の努力だけで生きてきたという思いから、誰かに生かされているという思いに変化しだしたのです。 誰というのは神なのか、死んだ両親なのかそれはわかりません。 しかし明かに 誰かが私を65歳まで生かしてくださったのです。 この先何年生かしてくださるかは判りません。 しかし今現にここでブログの記事を書いて生かしてもらっています。 これは本当に有り難いことです。 有り難いとは本来有り得がたいことという意味です。 そこで死ということです。 皆様は死=無とお思いですか。 私も若い頃はそう思っていました。 これは栄耀栄華を極めた秀吉でも、死に対して「浪速の夢」と虚しい辞世の句を残して死にました。 有り余る黄金の山に囲まれても、死に対しては無と写ったのでしょう。 しかし今の私は死が怖くないといえば嘘になりますが、無の世界へ旅立つという気持ちでなく、 かぐや姫物語のようにお迎えがきたという感覚で受け入れる気持ちが強くなってきました。 その間に病気になっても病魔に取りつかれたという気持ちでなく、病を頂くという気持ちで接していこうと思っています。 これから私のうえに起る全ての事柄は、私には故有って起る事柄なのですから、全てを背負って生きていこうと決めたのです。 死は無への入り口ではなく、あの世とこの世を結ぶ接点であり続けたいと考えています。 亡くなられた方でも、未だに私の心の中で生き続けておられる方と全く頭から消えてしまわれた方がおられます。 広く言えば私の人生にモーツアルトは大きな影響を与えました。 200年前の遥か彼方の人です。 命や物には全て限りが有るのです。 足るを知り、人の心に残る生き方ができれば本望です。 死を無という考えかたは、死が無なのではなく、すでにその生き方が無なのではないでしょうか。 自分さえよければという生き方が無なのです。
by 11miyamoto
| 2005-09-13 13:27
| 雑感
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