情けは人の為ならず。 与えることの喜び。

奈良の薬師寺の安田管主の話から。    ある知り合いの方が,肺がんで余命3ヶ月になられたそうです。   そこである坊さんに相談に行くと,「生まれたものは必ず死ぬのだから,諦めなさい」と言われたそうです。  始めはこのくらいの話なら聴きに行くほどでもないと腹がたったそうですが、だんだんに諦めがつき家に帰ると奥さんに、「お前も諦めてくれ」と言いますと,「貴方はそれで良いかもしれませんが,残されたものはどうしたら良いのですか」と訴えられたといいます。   その言葉を聞いた彼は「そう言えば自分は死んだらどうなるかと、自分のことしか考えていなかった」 と気づき,残された人生をせめて人様のために尽くそうと決心されたそうです。  そして実行されたのが、自分と同じ病におかされた方への見舞いに行くということでした。
健康な方が頑張ってくださいというのではなく、余命3ヶ月の自分が見舞えば力になれるのではないかと考えられた訳です。  同病の患者さんをあちこち訪ねて励ます活動を繰り返すうちに,気がつきますと6年を経過していたのです。  気持ちを切り替えて,人様だけのことを考えて生きていくうちに、悪玉の癌細胞が無くなり,善玉の細胞に生まれ変わり,人のために尽くす姿勢がその人の生命を延ばした気がしますと安田管主は述べられています。    この話を私は10年前に聞いていたら、まあたまたまそういうケースもありうるだろうと言う醒めた聞き方だったろうと思います。   しかし今は,私はその方が余命が3カ月であれ6年であれ、立派な生き方をされたと思います。     別の法話で聞いた話ですが、人のために尽くして亡くなられた方の死に顔は、本当に仏様のように柔和で穏やかな顔になられると聞いたことがあります。   それに対して物欲に未練を残した方の死に様は、このような穏やかな最後は迎えられないことでしょう。
若い方には自分がどのような死に方をしたいか、余り想像はされないかもしれません。  しかし
前に書きましたように如何に死ぬかは、如何に生きるかに繋がっているのです。   若い時には自分の命は永遠に続いているかの如くの錯覚をしていました。   と言うことは自分本位の
生き方で、本当は私の誕生する前にも生命があり、その後も生命は続いていくのです。 
自分が本当に大切なら、自分と同じ生命を持つ他人や他の生命体すべてに慈しみの気持ちを待ち接することの大切さに気づかれること、欲の突っ張りあいの株の世界だけに余計に感じます。  しかしここで私が言う慈悲は儲け方を言っているのではないのです。   株式投資ですからどんどん儲けてください。  問題は儲けたお金の使い方です。   その全ては自分が儲けたお金だから,全部自分のために使い切るのか、すべてではないにしても人様が喜んでいただけることにお金を使う気持ちがあるのかです。   お金をどのように使うのかで、その人の人生が問われると思います。 
by 11miyamoto | 2005-09-24 11:41 | 雑感


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