エピローグ  4

私も経験と年齢を積み重ねて、ようやく今の心境に至りました。 人(動物)に優しく自分に厳しいとか一旦決めると強情でテコでも引かない性格や、マイペースで余り人のことを気にしないで行動するB型といった基本的な土台は変わりませんが、生きていく上での気持ちは先ほども書きましたように随分変化しました。 その一番が「自分は生かされている」という気持ちを、今から20年ほど前に持ったことです。 それまではそのような気持ちを全く持っていませんでした。 小さい頃から貧乏暮らしで、そこに戦争が挟まりましたので、私は小さい頃から人に対して依頼心が少なく、食べ物も自分で調達して生き残り、学費も高校生から新聞配達などをして親の負担を減らして精神的に自活してきました。 私は自分でかなり自活して生きてきたという思いが強かったので、人の世話になって生きてこなかったという潜在的な意識が強かったと思うのです。 その思いがあったため、子育てもその気持ちが出て厳しいものになったと思います。 しかし時代が全く違うのに、今考えますともっと対話をして押しつけるのではなく、子供達の自主性を尊重すべきだったと反省しています。 私の反省は子供達に受け継がれ、また違った形で生かされるでしょう。 話はまた少しそれましたが、生かされている話に戻しましょう。  このことに目覚めたのは、私が普通の人だったら何度も死の体験をしただろうと思われるような出来事に、数えただけでも10数回(その後でも7回)も遭遇しているのですが、全部無事怪我一つ負わず生還している事に気がついたからです。
それと同時に霊的な経験も4回経験しました。 これは一部前に書きましたから再度書きませんが、丁度人生のおりかえし点の年齢になった時に、このような考えが突然閃いたのです。 良くいわれる神の啓示そのもののような感じでした。 今まで自分の人生は全部自分が切り開いて進んできたという思いと全く反対の考えが閃いたのです。 それまでの私の人生は、誠に我欲の固まりのような生き方でした。 私の性格は本来は人には温和で、こちらからは絶対に人は傷つけない生き方と思っていましたが、しかし私が我欲を張れば結果的に人を傷つけたことになるのです。 それまでも私は良く自分は何故生きているのかという問いかけをするほうでした。 この時は自分の会社での将来が完全に見えた時でしたから、自分は何のために生きてきたのかを徹底的に考えました。 普通ならいくつ命があっても足りないのに、何故か私は生き残った。
それは私の命を自分だけのために使えということではなく、その貴重な命を何か人の為になることに使え。 その為にお前をこの世に生かしておくのだという神の声を感じたのです。 そのような声を感じて私は「生かされている」と信じるようになったのです。 それと同時に今までの自分の生きてきた道筋の中で、私が気付かずに受けてきた数々の親切や助けを見逃していることにも気がついたのです。 凄く沢山の方のお世話や助けの中で生きてきたのです。 不足は言わなかったものの、自分の力だけで生きているとは何と傲慢な生き方であったのかを思い知らされたのです。 今までの生活の中でいかに感謝の気持ちがなく生活をしていたかを知ったのです。 それと病院の世話にもならず、車椅子を使うような生活もせずに、五体満足に毎日が過ごせる有り難味と、それを支えてくれた妻や沢山の人の存在の有難さを実感したのです。 私で出来ることを感謝の気持ちを持ってさせていただく、それが私の今後の与えられた役目だと感じたのです。 しかしその考えもまもなく間違っている事に気がつきます。 人に何かをしてあげるという考えそのものが、すでに傲慢だと気がついたのです。 人はいろいろな考えの中で生きておられ、私が良かれと思って何かをしてあげても、その人にとっては有難た迷惑の場合もあるのです。 また受け手としてしてもらったというのは大きな負担になることもあるのです。 人の心を汲むというのは、まさに自分の心との戦いです。 自分の心が広く相手の気持ちを大きく受けとめる大きさ広さがないと、してあげたというのはただ単なる自己満足に過ぎないのです。 その問いかけを絶えずしながら、これからを生きていきたいと念じています。


続きます
by 11miyamoto | 2007-08-05 11:46 | 雑感


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