歴史に学ぶ (関が原の戦い)

私は歴史が大好きで、今一番多い本は歴史書です。
その中で一番惹かれるのが戦国時代です。
日本史の中で、戦国時代は日本人が自分の考えで生き抜いた稀有な時代です。
だから魅力のある人が随分輩出しています。
自分の知恵と才能を精一杯使い、誰に媚びることなく生きることの大切さ、面白さを存分に
教えてくれた時代です。

その中の圧巻はやはり何と言っても関が原の戦いでしょう。
西軍が石田三成八万人、かたや東軍徳川家康七万人(秀忠未到着)計15万人が
あの狭い関が原で戦ったのです。
あのドイツの軍略家のモルトケが地形と陣形を見て、「これは西軍が勝ったでしょう」
と言った話は有名ですが、この戦いはサッカーの試合のように、実際戦っていたのは全体の2割ぐらいで、後は山側で高見の見物をしていたと言われています。

その中で私が最も興味を持ったのが島津義久率いる薩摩兵の戦いです。
高見の見物をしていたのは薩摩軍も同じなのですが,戦いが終わろうとした瞬間からとんでもない変わり方をするのです。
義久の号令一珂,徳川軍めがけて突っ込んでいったのです。
それも堺に戻る為に、比叡山側に逃げないで、徳川軍の方に突っ込んだのです。
その時の兵500人(その時までに1,000人が死亡して残りの500人)の勇猛果敢な薩摩兵に蹴散らされて、徳川軍はうろたえます。
しかしその後逃げ出した薩摩軍に再び元気を取り戻した徳川軍はハイエナのごとく追い始めます。
その時に薩摩兵は「捨てかん」という戦法で対抗します。
「捨てかん」とは数名の兵隊が追ってくる兵に対して、道のど真ん中に鉄砲をかざして
島津義弘を逃す為自分の命と引き換えに時間稼ぎをする戦法なのです。
この捨てかんを繰り返し、逃げ延びてからも山中でのぶせりに会い,堺にたどり着いたのは
80人だったと言われています。

島津義弘という殿様一人を守りきり、薩摩に帰還させるため、1,420人の薩摩兵が死んで
いったのです。
皆様はこの1,420人の死は犬死と思われますか。

この話を読んだときは私は,何と惨い殿様がいるものだ。
これは人間の世界ではなく、女王蜂の世界ではないかとぐらいに思いました。
しかしあとからいろいろな事実が判り,私の人生観が変わるに連れて、その考え方が変わりました。
一番苦しんだのは島津の殿様ではなかったかと、、、、、
死んでいった兵は殿様に成り代わって死んでいけるということに、むしろ幸せを感じて死んで
行ったのではないだろうかと思うようになったのです。
薩摩兵の強さは群れを抜いていたそうです。
その原点は主君の器にあったような気がします。
自分の命に替えてもお守りしたい主君との関係が出来上がっていたからでしょう。

翻って現代に生きる私達に、自分の死を持ってしても守りたい人は何人いるのでしょう。
死はともかく犠牲にしてでも守りたい人は何人いるのでしょう。
守られる人、死を持って守る人のいた幸せな時代がかって日本に存在しました。
今我々に何が欠けているのでしょう。
自分を守る為に何人もの人の犠牲を強いてなんとも思わない時代に突入しました。

私に生きる原点を教えてくれた大切な歴史の一齣です。
by 11miyamoto | 2004-12-07 21:41 | 雑感


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